広報にほんまつNo.128
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3Nihonmatsu City Public Relations, 2016.7, Japan▲二合田用水の取水地点の上部に奉られている水神様は昭和11年に建立されたもの。二合田用水路周辺は現在、春と秋に受益者らの手により一斉に清掃作業が行われ、作業が始まる前に二合田用水路維持管理委員会のメンバーがこの水神様の前に集まり、塩・煮干し・清酒を供え、参拝してから作業を行う。▲二合田用水の取水口部分。奥にみえるのが烏川から取水する際の樋門。岳ダムが主水源となった現在は、この上流部分の水路は用水路としては使用されていない。▲箕輪門通りの現在の水路。この通りは「日本の道100選」にも選ばれている。名前の由来 昔、この用水の終点部分に「二合田」という地名の10軒ほどの集落があり、二合田用水の流路の中でこの地が最初の受益地だったことから、この地名をとって「二合田用水」と呼ばれるようになったのではないかといわれています。 この「二合田」という地名は今では存在しませんが、昭和30年代の二本松町合併の時に、「二合田」と「伊佐沼」、そして昔あった地名の「滝沢」という地名のそれぞれの頭文字をとって、現在の二伊滝という地名が命名されたといわれています。なぜ二合田用水は 必要だったのか 二合田用水は、城および城下の防備・衛生・防火と農業用水として計画され整備されました。二本松城はもともと水に乏しく、城内にあった井戸の中でも飲料水として利用できたのは、現存する「日影の井戸」だけだったといわれています。また城下では、飲料水・生活用水は井戸水で十分間に合っていましたが、六角川や鯉川は水量が少なく、年間を通して水量に変化がないことが求められる防火・衛生用には適さず不十分であったといわれています。 また江戸時代の藩経済は、領民による農業生産力(ほとんどが年貢米)がその基盤であり、新しい田んぼを開拓して耕地を増大させることが重要でした。農業用水となる河川が少ない二本松藩にとっては、どうしても水の確保が緊急の課題だったのです。光重公が二本松藩へ来た時、領内では度重なる天災等で凶作が続き、農民たちは飢えや悪疫に苦しめられていたことからも、光重公は早期に疎水工事の重要性を認識し計画・実行したといわれています。近現代の二合田用水 戊辰戦争により、二本松城は落城し焼失しました。近代国家を創立し、富国強兵を目指した明治新政府。二本松では明治6年(1873)、旧城跡に全国でもまれな近代式設備をもった製糸工場が設立されました。製糸生産には、使用する水の良否が大きく影響するとされていた中で、江戸時代に城内へ引かれた清らかな二合田用水はうってつけであったといわれています。 二合田用水路は郭外6町の道路中央にも敷設されていましたが、二本松製糸等の視察に時の太政大臣(当時の政府最高官職)が来ることになり、迎える準備として全て砂利等で埋め立てられ、明治17年に衛生・防火用水としての使命を終えています。 昭和46年から岳ダム工事が始まると、それに合わせて昭和52年から二合田用水路の大改修工事が行われました。昭和54年に岳ダムが完成したことで、二合田用水の主な水源は岳ダムからの水となり、320年ほど続いた大堰取水口の役目が終わりました。 現在、田植えを行うときは、土日祝日などに一斉に行われることが多く、水が必要となる時期が重なります。そういった中、常に一定の貯水をしている岳ダムが主水源となった二合田用水は、昔よりも安定して田んぼなどへ水を供給することができるようになりました。

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