広報にほんまつNo.128
4/32

4広報にほんまつ→ダムからの用水→二本松城大堰安達太良山東北自動車道烏 川至仙台至郡山六角分水岳ダム北清水大関地内板目沢地内二伊滝地内熊の穴水源二合田用水旧二合田地内二本松城当時の 二合田用水経路 安達太良山山頂付近の雪解け水は地中に浸透し、何十年もの年月をかけて山の中腹にある「熊の穴水源」より湧き出します。 この水が烏川へ流れ込んだものを大堰地点で取水する箇所が二合田用水路の起点となり、そこから大関、板目沢、二伊滝地内を経て城内外へ流れ込んでいました(上の地図参照)。工事経過 幕府には内密で 安達太良山中腹の取水口より二本松城までの延長は14キロ、そこから郭内外へ延長4キロ、標高差は約500メートルという二合田用水路の大工事。二本松藩の直轄工事であったことは間違いないと思われますが、藩の公式文書には何一つ記載が残されていません。このことから幕府に対し無届けの隠し工事であったことが推測されています。 ではこの大工事をどのようにして進めたのでしょうか。 測 量 水路の測量は、夜間に数人の人夫に提灯をもたせ高低を目測し、近距離のところでは、線香を使って測量したと伝えられています。東北自動車道の上に架かる百間樋から二本松城跡までは、1パーセントの傾き(100メートル進んで1メートル下がる)なので、高度な測量技術が求められたと推測されます。 工 法 二合田用水路のルートが決定すると、1日50人から300人といわれている人夫を動員して水路部分を掘り下げていきました。地盤が砂や小石のところは、底に石張りをして水の浸透を防ぎ、所々には洪水時の水を水路外へ排水する地点を設けていました。また水路上流部と末流部には急流部分があり、素掘り用水路では浸食してしまうため、落差工を設けて流速を落とすことを考慮した跡が所々にみられます。 道 具 現在と違って機械は無かったので、「すき」や「くわ」を使って掘り起こし、「もっこ」や「つちみ」を使って運んだものと思われます。立役者 二合田用水を語る上で忘れてはならない人物が2人います。二合田用水を考えた「山岡権右衛門」と、測量・設計を行った「磯村文蔵」です。磯いそむら村 文ぶんぞう蔵 算学者で二合田用水の測量・設計を行った人物。尾張国(愛知県)で生まれたといわれており、肥前(佐賀県)鍋島家に仕えていた。城の修築や城下の町割りのために専門家を必要としていた二本松藩は、1658年、当時国内で有名だった算学者の文蔵を召し抱え、二合田用水の測量・設計に当たらせ、1661年には藩より100石を受領し武士の身分に出世した。1700年に二合田用水を完成させた後も藩の要職を務め、現在は市内根崎の善性寺に眠る。山やまおか岡 権ごんうえもん右衛門 二合田用水を発案した人物。1622年、丹羽家が棚倉藩主の時代に召し抱えられ、棚倉城、その後の白河小峰城改築の際に重用される。二本松藩へ入府後、二合田用水の建設では、測量にあたった磯村文蔵を藩へ推挙したと伝えられる。二合田用水は幕府の許しを得ない工事だったため、権右衛門は藩士の身分を離れて工事の具体的計画を進めたと伝えられている。

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です