広報にほんまつNo.151
9/36

戊辰150年企画丹羽 二本松藩9Nihonmatsu City Public Relations, 2018.6, Japan 二本松へ丹羽光重が入府してから210年目の嘉永6(1853)年、浦賀にペリー提督率いる黒船が来航します。これ以降、奥州に位置する二本松藩も時代の波に翻弄されるようになります。安政5(1858)年には上総国(現在の千葉県)富津砲台の警衛を、文久3(1863)年3月には江戸警衛を、同年8月には京都警衛を、さらには元治元(1864)年には水戸の天狗党鎮撫をそれぞれ幕府から命じられ、これら多くの出費により、藩財政は破綻する一歩手前の状態でした。 一方、京都では大きく歴史の歯車が動き出します。 慶應3(1867)年10月の、15代将軍・徳川慶喜による大政奉還、そして同年12月に王政復古の大号令が発せられたことにより、260余年の江戸幕府が終焉を迎えましたが、同4年1月に旧幕府勢力を一掃しようとする薩摩藩・長州藩を中心とする討幕派と、旧幕臣、旧京都守護職の会津藩などの旧幕府軍が鳥羽・伏見で戦いとなり、旧幕府軍はこれに大敗し、賊軍の汚名を着ることになりました。 その後、新政府軍は江戸に向けて、幕府討伐に進軍しましたが、慶喜は徹底した恭順の態度を貫き、同年4月11日に徳川家の居城である江戸城は無血開城の運びとなりました。 将軍家が政権を返上し、自身の城も明け渡して新政府軍に恭順した訳ですから、新政府軍の進攻はこれで終わってもいいはずですが、これにより戦争は終わりませんでした。 薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍は、その鉾ほこ先さきを将軍家から会津藩・庄内藩に向け、東北地方に進攻するに至ります。天皇の名において動員された西南諸藩の軍事力によるこれらの行動は、天皇の絶対的な新しい権威の確立を成し遂げるための最高の手段でありました。武力をもってしても東北全域を従わせ、全国統一を図る必要があったからです。結果として東北諸藩は、明治維新という革命の「犠牲」になってしまったという見方も多くあります。 次号の広報にほんまつ7月号では、戊辰戦争における二本松の戦いについて掲載いたします。兜の前部に付ける飾り「前まえ立だて」には、鍬くわ形・竜頭・動物の角など多種多彩な立たて物ものがあり、この兜の前立は獅子頭の一種である。当初、獅子に角を付けた形態が次第に変化していき、ついには獅子よりも鬼面に近くなり、これを「魅(ばけもの・もののけ)」の文字を当て、「しかみ」と読ませ名称とし、鬼き面めん獅じ子しとも称した。金きん花か猫びょう塗ぬり唐とう冠かん兜かぶと(伝.丹羽長秀・長重着用)

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です