広報にほんまつNo.152
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10広報にほんまつ 2018.7戊辰戦争勃発150年を迎えました。“もう150年” “まだ150年”、歴史の感じ方は人それぞれでしょう。多くの方は、二本松城落城をもって二本松藩降伏、そして二本松藩消滅と思われているかもしれません。 しかし7月29日の城内戦で、三の丸御殿などを自焼し落城したものの、戦いは二本松城奪還戦として続いたのです。8月17日、二本柳で戦闘を展開、西軍の猛攻により5人の戦死者を出し撤退しています。8月19日には玉ノ井村山ノ入で戦闘、翌日母成峠で戦闘、防戦の末に支えきれず敗走、合わせて8人の戦死者を出した結果、二本松藩の戦いは事実上終わりを告げました。 一方、米沢で避難生活を余儀東京都在住で元会社役員。現在の主な役職は次のとおり。・二本松市地方創生アドバイザー・東京二本松会会長・二本松史跡保存会名誉顧問・福島県城下町連絡協議会名誉顧問・二本松藩睦会名誉顧問・東京福島県人会常任相談役去年の春先からでしょうか。全国的に、今年の戊辰戦争から150年目の節目の年が話題となり、私のもとにも数々の行事案内が舞い込むようになりました。私も手元の戊辰戦争関係の資料を改めて確認するとともに、当時の二本松に想いを巡らせました。 私が国元・二本松へ足を運ぶようになったきっかけは、東北戊辰戦争100周年の行事に初めて出席させて頂いてからです。場所は失念いたしましたが、市内の学校の講堂で100人以上の方々がご出席されていたと思います。そして、出席されていた方々から、「殿様が来てくれてとてもうれしい。」と歓迎して頂いたことを記憶しております。 それからというものは、勤務先の理解もあり、毎年欠かさず二本松少年隊二本松藩主・丹羽家18代当主丹に羽わ 長なが聰とし 氏東北における戊辰150年を想う顕彰祭、墓前祭には出席させて頂いております。 さて、戊辰戦争を考えると、当然ですが国元・二本松のことが脳裏から離れません。いろいろな考え方があるでしょうが、東北地方における戊辰戦争については、東北で一番力のあった仙台藩が、他藩の状況を見ながらの姿勢であったため奥羽列藩の足並みがそろわず、力を一つに結集することができないままに、奥州路の玄関口である白河に各藩から出兵し、戦わざるを得ない状況でありました。一方、西軍はその裏をかき海路常磐平潟港へ上陸し、県南地方を陸路・海路から攻略しました。退路を断たれた東北各藩の藩士は、バラバラになり組織的な攻撃ができず、それにも増して当時の貧弱、かつ旧式の武器ではとても立ち向かえず敗走を余儀なくされました。 しかしながら、私は、二本松藩士は義に殉じて徹底抗戦を貫いた「東北の誇り」であると思っております。 本年、戊辰150年を迎えるに当たり、改めてこの戦争で命を落とされた方々に、心からご冥福をお祈り申し上げます。双葉郡双葉町生まれで、現在は市内若宮に在住。東北学院大学文学部史学科で考古学を専攻し、卒業後に福島県教育庁文化課に入庁。その後二本松市役所へ入庁し、社会教育課、生涯学習課などを経て、文化課長を務めた。二本松市文化財保護審議会委員根ね本もと 豊とよ徳のり 氏落城後の二本松藩と丹羽家なくされていた藩主・丹羽長国公は、9月11日に降伏嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出、受理されて正式に二本松藩降伏に至っています。その後9月16日に帰藩命令があり、21日に帰着し大隣寺にて閉居謹慎、翌月上京を命じられ、26日に前橋藩邸にて謹慎、戦犯の御沙汰を待つ身となります。そして長国公は11月5日、官位を剥奪され旧江戸藩邸没収を宣告されました。 しかし幸いにも12月26日、長国公が隠居し米沢上杉家より養子を迎えることを条件に家名が存続し、旧領のうち5万石および二本松城を預けられたことで、再び二本松藩が成立するに至っています。 二本松藩が消滅するのは、廃藩置県詔書が発布された明治4(1871)年7月14日のことでした。

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