広報にほんまつNo.152
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4広報にほんまつ 2018.7慶應4(1868)年5月6日。新政府軍への攻守同盟「奥羽越列藩同盟」が成立しました。もともとこの同盟は、新政府軍に会津藩の救済を求めるために結成した奥羽諸藩の同盟でしたが、一つの事件がこの同盟の結成主旨を変えるとともに、東日本全土を巻き込んだ大戦争への引き金を引いてしまいます。 同年閏4月19日に起きた、奥羽鎮ちん撫ぶ総そう督とく府ふ下参謀であった世せ良ら修しゅう蔵ぞうの暗殺事件です。奥羽諸藩は、会津藩救済のために同盟して嘆願書を作成し、新政府が東北諸藩鎮撫のために派遣していた奥羽鎮撫総督府に提出しましたが、この嘆願に断固反対したのが世良でした。「会津藩主・松まつ平だいら容かた保もりは天にも地にも容いれられない罪人であり、即刻討ち入るべし。」 と、その嘆願書に付け札をして戻すとともに、仙台藩・米沢藩に対し、会津藩討伐の軍を進撃させるよう厳達しました。 また世良は、嘆願書を提出する仙台藩の重臣に対し、多くの人が見つめる中で、侮蔑的叱責をするとともに、主君を辱はずかしめるような言動もあったと伝えられています。武士の面目を失い、主君まで辱めを受けた仙台藩士は、ついに堪忍袋の緒が切れ、福島宿において世良修蔵を暗殺してしまいます。二本松藩はそれまで、仙台藩・米沢藩と協議を重ね、会津藩の新政府軍への謝罪降伏をもって平和解決への道を探っていましたが、この事件が新政府への実質的な宣戦布告となり、会津藩救済のための同盟は、新政府軍への攻守同盟となってしまったのです。 奥羽越列藩同盟の盟約書は8カ条からなり、その二つ目には「一、同舟海を渡るごとく、信をもって居し、義をもって動くべき事。」とあります。また仙台藩が作成した東北諸藩の行動計画の中には、「二本松藩は全兵力で本道より先鋒で進軍」とされていました。奥羽の南に位置する二本松藩にとっては、非常に過酷な内容でした。奥羽越列藩同盟加盟31藩(黒網掛け部分が福島県内の藩)仙台(62万5千石)・米沢(15万石)・盛岡(20万石)・秋田(20万石5千石)・弘前(10万石)・二本松(10万700石)・守山(2万石)・棚倉(6万4千石)・相馬中村(6万石)・三春(5万石)・山形(5万石)・福島(3万石)・上ノ山(3万石)・亀田(2万石)・一ノ関(3万石)・矢島(8千石)・松前(3万石)・平(3万石)・本庄(2万21石)・泉(2万石)・湯長谷(1万5千石)・下手渡(1万石)・新庄(6万8千2百石)・八戸(2万石)・天童(2万石)・新発田(10万石)・村上(5万9千石)・村松(3万石)・三根山(1万1千石)・長岡(7万4千石)・黒川(1万石)奥羽越列藩同盟上は奥羽越列藩同盟の旗印。旗には黒地のものと白地のものがある。

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