広報にほんまつNo.152
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6広報にほんまつ 2018.7奥州の玄関口白河。丹羽家2代当主・丹羽長重公が築いた総石垣造りの白河小峰城が、東北地方での戊辰戦争における戦略的重要拠点でした。古来より白河は関所であり、新政府軍にとっては、この地を得ずして会津を始めとする奥州に攻め入ることは難しく、また奥羽側の軍にとっては、この拠点を確保すれば奥羽全体への影響を左右することができ、白河は戦略的な重要地として両軍争奪の的になりました。 慶應4(1868)年閏4月25日からの約100日間、白河争奪戦が繰り広げられます。この間の戦いのうち、奥羽側の軍が勝ったのは閏4月25日の緒戦のみで、その後は一度も城を奪還することはできませんでした。 特に5月1日の戦いでは、奥羽側の軍は2,500人~3,000人、新政府軍は700人~800人の兵力でありながら、武器の違いが大きく影響しました。この日奥羽側の軍は歴史的な大敗を喫し、白河小峰城を奪われるとともに、死者300人余りを出しています。新政府軍の戦死者はわずか10人でした。 長引く白河の戦いの間、新政府軍の別動隊は6月24日に棚倉城、7月13日には磐城平城と次々に城を落とし、進軍を続けました。この状況を受け同盟各藩は、7月4日の秋田藩を皮切りに、戦況が思わしくないことを察知した本庄・天童などの諸藩が奥羽越列藩同盟から離脱していきます。 また、7月26日の小野新町の戦いにおいては、二本松藩勢は三春藩が同盟を離脱したとは知らずに三春藩に救援を求めましたが、逆に三春藩は新政府軍を道案内してこれを包囲し、結果として二本松勢は多くの戦死者を出し敗走しました。7月27日午前4時頃、新政府軍は三春を発し一路二本松城下を目指しました。このとき、白河の戦いに出兵していた二本松藩の主力部隊は、郡山の小原田や笹川などにおり、安達郡内には全くいない状況でした。二本松藩は全軍に対し城下防衛のため引き上げを命じましたが、各隊は各地に駐屯する新政府軍を避けての移動のため帰藩に難儀し、2日後の二本松城下の戦いにすら、遂に間に合わない部隊もありました。新政府軍の 進 撃新政府軍の 撃 撃阿武隈川奥州街道福島小浜(7.27)三春(7.26)糠沢本宮郡山須賀川小野新町(7.26)白河(5.1)棚倉(6.24)いわき(7.13)平潟(6.16)会津若松(8.23)二本松(7.29)母成峠相馬(8.6)※矢印「➡」は新政府軍の進撃コースで、 地名に付く( )内は、進攻した日付※地図内の■色網掛け部分は、二本松藩領

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