広報にほんまつNo.152
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7Nihonmatsu City Public Relations, 2018.7, Japan4月に開戦した白河の戦い以降7月27日まで、二本松藩の戦死者は117人を数え、戦況は厳しくなる一方で、いよいよ新政府軍が二本松城下へ攻め入ることが目前となりました。 慶應4(1868)年7月27日夜、二本松城中では老臣会議が開かれ、降伏か決戦かで激しい討議が繰り広げらました。一旦は新政府への恭きょうじゅん順、降伏に決しましたが、家老の丹に羽わ一いち学がくが議論を制し、次のように言ったと伝えられています。「三春藩信に背きて西軍を城中に引く。神人ともそれを怒る。我にして今、同じようなことをしたら、人これをなんというか。また、西軍に降って一時的に社しゃ稷しょく(=国家)を全うしても、東北諸藩を敵にしたらいずれは亡ぼされる。すなわち、降伏しても亡び、しなくても亡びる。同じく亡びるなら、列藩の信を守って亡びよう」老臣会議の結果、二本松藩は新政府軍に降伏せず、徹底抗戦する決断をしました。これは、老臣一同この戦いが勝つ見込みがほとんどないこと、そしてそれにより領内が焦土と化すことが分かりきった上での決断でした。会議では降伏論者も多くいましたが、結局は二本松武士としての誇りがそれをさせなかったのではないのでしょうか。 また、日本では将棋で取られた駒を相手が使うように、敵に恭順、降伏した場合、敵方の配下となり戦うのが戦国以来の常識でした。関ヶ原の戦いで、石田三成方として布陣していながら徳川家康方に寝返った小早川秀秋が、石田三成の居城であった佐和山城を攻め落としたように、奥羽越列藩同盟諸藩でも新政府に恭順した秋田藩は庄内藩を、相馬中村藩は仙台藩を、そして三春藩は二本松藩を、新政府軍の部隊として攻めました。もし、二本松藩が新政府軍に恭順、降伏していたら、地理に明るい二本松藩は隣国会津藩討伐の先鋒となり出陣した可能性が十分ありました。老臣たちは列藩同盟への信義、そして二本松武士の誇りにかけて、新政府軍の手足となることだけは避けたかったのかもしれません。一方、この決断は新政府軍も予想だにしていませんでした。新政府軍の討伐の矛ほこ先さきはあくまでも会津藩・庄内藩であり、二本松藩には何の恨みも無く、ただその進攻の通り道であったにすぎなかったからです。加えて、このとき既に奥羽越列藩同盟加盟藩が次々に恭順、降伏しています。それなのに兵力もままならず、ここまで多くの犠牲者を出しながらも、なぜ二本松藩だけが一向に刀を収めようとせず、藩一丸となって立ち向かってくるのか。ちなみに7月28日は二本松藩の降伏を待ち、新政府軍は進軍しなかったといわれています。この老臣会議では、もう一つ重要な決定をしています。それは、藩主・丹羽長国公を逃がすということでした。長国公は病床にあり、また嫡ちゃくし子がいなかったため、何としても生きていただかなければいけない事情がありました。二本松藩にとって丹羽家は藩そのものであったため、長国公にもし万が一のことがあった場合は、藩の存亡にかかわるからです。長国公は「城が総攻撃を受けようとしているこの時に、我一人が生きのびるのは何とも忍びない。病気で私の命も長くは無い。皆と一緒に城を枕に死ぬ。」と言って、家臣を困らせましたが、長国公の病床で泣きながらお願いする家臣の勧めに最後は従い、翌日米沢へ向け退城しました。降伏か ▲老臣会議図(古川 盛雄・画~絵でみる二本松少年隊より~)決戦か

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