広報にほんまつNo.152
8/40

8広報にほんまつ 2018.7慶應4(1868)年7月29日。朝霧の中、新政府軍は小浜と本宮の二方面から大挙して二本松に迫りました。軍事総裁家老の丹に羽わ丹たん波ば率いる主力部隊も遂に帰藩することができず、帰藩できた部隊も、休養する暇もなく各地で転戦してきた疲労困ぱいの兵でした。この藩の存亡の危機という非常時にもかかわらず、藩の兵力は不足し、老兵、少年兵、農兵も参加しての城下防衛をせざるを得ない状況でした。 怒ど涛とうの勢いで進軍する新政府軍を、小兵力の二本松藩は支えきれるわけもなく、守備していた城下防衛の重要地である供中口、大壇口は難なく破られ、あっという間に郭内、そして城内までの侵入を許すことになりました。城下戦においても、二本松藩と新政府軍との武器の差は圧倒的であり、銃砲の撃ち合いではまともに戦うことができない状況でしたが、二本松藩兵はそのような状況下においても、城下防衛のために敵に接近して、槍や刀で必死に新政府軍に立ち向かいました。その一つとして、二本松藩史には薩摩軍の六番銃隊の隊長であった野津七次(のちの元帥陸軍大将・野の津づ道みち貫つら)が語ったとされる、二本松藩士の青山助之丞と山岡栄治の戦いが記されています。「本宮から二本松城下へ進軍中、大壇口のある茶屋の陰に隠れていた2人の壮士が、突然我が隊に切り込んできて、矢庭(=たちどころ)に9人ほど斬り倒された。その壮烈な太た刀ち風かぜに圧倒され、全隊が退却したほどであった。2人の壮士は、最後には壮烈に斬り死を遂げた。」 2人の壮士は大壇口で戦った少年たちの撤退を助けたとされ、「大壇口の二勇士」と称されていますが、この他にも多くの二本松藩士が白はく兵へい戦せん(※)で斬り込みをしたと伝えられています。自らの命をなげうってでも、敵の侵攻を食い止めようとした二本松藩士の戦いぶりは、後に新政府軍により伝えられることとなりました。 野津は、戊辰戦争の悲壮さを次の詠歌に残しています。~うつ人も うたるる人も 哀れなり 共にみくにの 民と思えば~一方、二本松城内では、家老・丹羽一学、郡代見習・丹羽新十郎、小城代・服部久左衛門が自刃し、城を自焼しました。丹羽一学と丹羽新十郎は、藩を交戦に導いた主導者でもありました。また城の本丸でも、丹羽和左衛門、安部井又之丞の二人の老臣が自刃しました。和左衛門は新十郎の養父であり、和平論者であったようです。それぞれが藩を壊滅に追い込んだ責任を取ったものと思われます。 城が落ち、二本松で最も長い1日が終わりましたが、二本松藩が降伏したのは9月11日で、会津藩が降伏する9月22日の約10日前のことでした。※白兵戦とは  敵と接近し、刀や剣、槍などの白刃のついた武器を交えて戦うこと。▲二勇士奮戦の図。正面上が、木村銃太郎率いる少年隊たちが陣取った大壇山で、小屋の前で奮戦しているのが、青山助之丞と山岡栄治の二勇士。(太田霞岳・筆 ~ふるさとの思い出写真明治大正昭和二本松より~)最も長い1日   ~ 1868年7月29日 ~

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です