広報にほんまつNo.152
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9Nihonmatsu City Public Relations, 2018.7, Japan二本松藩には「入れ年」という独特の制度がありました。戊辰戦争における二本松の戦いでは、この制度と兵力不足の実情が重なりあい、多くの少年たちを戦場に赴かせてしまいます。後にこの少年たちは、『二本松少年隊』と呼ばれることになります。大壇口の戦いでは、少年隊の悲劇を生みました。大壇口に出陣した木村隊は、隊長の木村銃太郎、副隊長の二階堂衛守以外の25人は、全て12歳から17歳の少年たちで構成されていました。 戦闘で隊長の木村は敵弾に打ち抜かれ、「この傷では到底お城には帰れぬ。わが首を取れ。」と副隊長の二階堂に伝え、二階堂は木村の首を切り落としました。その瞬間、少年達は一斉に号泣したといいます。そして、少年たちは泣きながら木村の屍しかばね(=死体)を埋め、城に戻り最後の抵抗をすべく引き揚げることになりました。先頭は二階堂と岡山篤次郎(13歳)で、2人は木村の首を、それぞれ頭髪を片手につかんでささげもち、大隣寺付近の道を急いでいました。その途上、新政府軍と運悪く遭遇し、二階堂がまず死傷し、岡山も腹部に2発の弾丸を受け、その場に倒れました。その後、城は焼け落ち戦闘的行為はあらかた終了し、大隣寺付近の戦場整理をしていた土佐藩士が岡山の姿を認め、襟元に書かれた文字「二本松藩士岡山篤次郎・十三歳」の『十三歳』に驚きます。藩士たちは、まだ息のあった岡山を城下称念寺におかれた新政府軍の野戦病院に搬送しました。土佐藩の小隊長・広田弘道は、死にひんしながらもうわ言で「無念」「銃をくれ」などと発した岡山に心を動かされ、「この少年を引き取って養子にしたい。」と語ったと伝えられていますが、岡山は絶命し、かないませんでした。 岡山は出陣に当たり、初めから死ぬことを覚悟していたようでした。「母が屍を探すときに分かりやすいように」と、戦場で着ていた服や手拭いにいたるまで、母に頼んで「二本松藩士岡山篤次郎・十三歳」と書いてもらっていたとのことです。 大壇口では戦いに参加した少年25人のうち、数え年13歳の少年を含む8人の少年が戦死しています。 ※「入れ年」制度とは  二本松藩で成人としての扱いを受けるのは、数え年20歳でしたが、18歳になった時点で藩に成人した旨の届け出をすると、藩は兵籍に入ることを命じる習慣がありました。つまり2歳のさばを読むことを黙認することで、これを「入れ年」といい、二本松藩独特の制度でした。7月27日の本宮占拠を受け、藩では兵籍を15歳まで許可、「入れ年」にすると13歳までが対象となりました。少年隊士は62人で、うち戦死者は14人を数えます。二本松少年隊◀この写真は、少年隊の最後の生存者であった今村剛介翁おきな(旧性・武谷)にお願いし、少年隊として出陣した際の軍装を再現していただき、それを今村翁の孫(当時14歳)に着せて撮ったもの(昭和14年撮影)。翁は生前、次のような懐古談を残しています。『少年たちは体が小さかったため、太刀を佐々木小次郎のように斜めに背負った者もおり、刀を抜くときは、友人に抜いてもらったり、2人が向き合ってお辞儀のように腰を折り、互いに相手の刀を抜いたものだった。』『藩のため戦争に出て戦うことは、武士の子として当然の事であって、特に語るべきことではない。生まれながらにして、既に心に決めていた事だから、戦争に出ることになって恐ろしいとは思わなかった。出陣の前夜などは、今の子どもの修学旅行の前夜のようなはしゃぎようだった』

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