国指定史跡 か い せ き め い
<読み方>
<意 味>
<丹羽高寛公>(にわたかひろ)
「丹羽高寛公肖像」(大隣寺所蔵)
<岩井田昨非>(いわいださくひ)
名は左馬助、のち希夷(きい)と称し、字(あざな)は子微、号は甑岳・屠龍・昨非、通称を舎人といいました。下野国芳賀に出生、のち江戸に出て、幕府の儒臣・桂山彩厳に学び、儒学をきわめ、享保19年8月藩政改革に伴い、家老丹羽(浅見)忠亮の推挙で、高寛公に150石をもって招へいされました。 着任後、綱紀の粛正・行政改革・生涯奨励・藩士教育等の諸改革の推進を行い、のち300石の禄を給され、番頭格に昇進しました。戒石銘刻銘に際しては、反昨非派による辞句曲解のため、農民一揆いわゆる昨非騒動が起り、反昨非派は処罰、昨非は病のため隠居という形で解決したといわれています。宝暦8年(1758年)3月14日没、享年61歳、市内竹田の台運寺に葬られています。 因縁所生、もし高寛公が昨非を登用しなかったなら、二本松に戒石銘は存在し得なかったものといえます。
「岩井田昨非の墓」 遺言により、安達太良山が眺望できる台運寺墓所の頂上に、山に対面して葬られている。