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岳温泉開発の功労 木村 泰治(きむら たいじ)

岳温泉開発の功労
木村 泰治(きむら たいじ):1872年~1961年

木村 泰治

“ニコニコ共和国”として今や全国にその名が知れわたっている岳温泉。しかし、その変遷には先人たちの苦渋に満ちた足跡がありました。
古くから鉄山直下に営まれていた湯日(元岳)温泉が土石流で全滅、次いで塩沢に移し復興した十文字岳温泉が戊辰戦火で焼失、さらに深堀温泉として再々興するも失火で全焼、そして現在地の岳温泉。その岳温泉の繁栄は、木村泰治翁の熱意と不屈の精神があったからこそでした。

明治4年4月8日、泰治は木村謙斎・スエの四男として秋田県大館に出生。木村家は代々、大館城の城代であった佐竹氏の御側医師という家柄でした。少年時代は身体虚弱ということもあって学業成績にも影響が生じ、小学校卒業時には50人中の49番であったといわれています。
明治19年(1886年)上京し、東京英語学校に入学。猛勉強の末、2年生の時には首席になる程の努力でした。
同28年内閣官報局に就職、そこで後に小説家として名を馳せた二葉亭四迷の知遇を得ることになります。

四迷は泰治の性格や仕事ぶりから、新聞記者への転職を勧め、台湾日報の知人を紹介しました。台湾に渡った泰治は知人の奨めで台湾日々新聞の記者となり、その適性から能力を発揮し、ついには編集長に昇格したのです。
同41年には実業家への転身を決意し、10年間の記者生活に別れを告げました。その後、手がけた企業は20を越え、自他共に認める台湾随一の実業家に成長し、昭和12年(1937年)には台湾商工会議所の初代会頭にまで登りつめました。
泰治と岳温泉の関わりは、大正12年(1923年)にさかのぼります。当時の岳温泉は7軒の旅館が担保に入り、高利貸しから借金をして急場をしのぐという最悪の経営状態でした。
そのため、借金を肩代わりしてくれる新たな温泉経営者を探す必要性に迫られ、その経緯は定かではありませんが、泰治に白羽の矢がたちました。一度は断ったものの、その熱意に負けて岳温泉を訪れたのです。
そして、安達太良山を背景とした自然環境、交通の利便性はもとより、温泉湧出量・湯性質から他に秀でる素晴らしい温泉と確信した泰治は開発を決意しました。まず、土地6町歩と温泉のすべての権利を6万円の巨費で買い取り、道路を整備するとともに、湯元から長さ1間の松製管を4千本以上つなぎ合わせて引湯し、豊富な湯量を絶えず確保したのです。
泰治の理念は、”広大な私有地を開放し、児童遊園地・高山植物園・緑地帯などを造り、温泉を国民大衆のものとする。”というものでした。
それに基づいて、安達太良山・岳温泉の国立公園指定、国民保養温泉指定、県営くろがね小屋新設などの促進を図るため、観光施設の開発・充実に私財を惜し気もなく投じています。その結果、昭和30年に全国7か所の国民保養温泉の1つに指定され、後の繁栄の礎を築いたのです。
昭和36年2月16日に92歳の天寿を全う。国立公園開発の功労などにより勳三等瑞宝章を贈られました。

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