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藩随一の尊王義士 三浦権太夫義彰(みうらごんだゆうよしあき)

藩随一の尊王義士(そんのうぎし)
三浦権太夫義彰(みうらごんだゆうよしあき):1837年~1866年

三浦権太夫義彰

戊辰戦争における二本松藩の戦死者は、337名を数えています。藩士はもとより、老人組・少年隊、そして農兵など各階各層に及びました。
その中で、農兵司令士として奮戦し、壮絶な戦死を遂げたのが三浦権太夫義彰でした。

義彰は天保8年、藩士三浦義武(よしたけ)の長男として出生、通称を権太夫といい、のち桜所(おうしょ)と号しました。
祖父・義類(よしたか)は名郡代(ぐんたい)として精励する一方、一舟(いっしゅう)と号した詩人で多くの著書を残しています。父・義武は百三十石取りの郡奉行、勘定奉行の職にある一方、多趣味の持主でした。庭には四季折々の花、草木を植え、池には白蓮を配し錦鯉を放ち、室内には多くの書幅画帳を集め鑑賞し、また自らも画を白河の春木南湖(はるきなんこ)に学び、松湖(しょうこ)と号し、その作品は高い評価を得ました。
こうした環境の中で育った義彰もまた、少年のころから藩儒学者・堀謙斎(ほりけんさい)の門に学び、文武教育を会得し、のち尊王の志を抱くようになりました。

義彰の性格は質実剛健、清廉潔白、そして藩を思う心は人一倍強かったといいます。
文久2年(1862年)5月藩主の参勤交代に従って江戸詰めとなりました。初めての執務の中で、家老座上の丹羽丹波(にわたんば)をはじめとする重臣たちが、藩政を欲しいままにしていることに憤慨したのです。
さらに、幕藩体制の不安定さが見え隠れするなど、時勢の推移を憂慮し、ついに丹波へ藩政刷新を説いた建白書を送り付けました。
その内容は、「人材を登用し、能吏(のうり)に任じて兵制を改革し、軍備を充実すべし。また冗費を節約すべし。さらに費用が続かねば、三百石以上の重臣の俸給を半減すべし。」というものでした。
その結果、重臣たちの反感を買い、策謀により藩政を乱す者として二本松に送還され、投獄処分となったのです。

義彰は再び、獄中から建白書を送ろうと試みましたが、不成功に終わりました。翌年、出獄を許されたものの自宅禁固処分のため、子弟を集めて教授する日々を送ります。
慶応4年、戊辰戦争の戦火は白河以北に達し、7月下旬には二本松藩領まで及んだことで、義彰はようやく赦免されました。そして、藩命により農兵を率いて藩境の杉沢村(現岩代町)に出陣、のち後退して安達ヶ原の供中口(ぐちゅうぐち)を防備することになります。
出陣に際して義彰は、両親に対して「天皇に対抗する意志は全くないが、藩命に反抗することもできない。一死をもって双方に臣節を全うする覚悟である。」と、告げたといいます。
出陣姿は烏帽子(えぼし)に直垂(ひたたれ)、また弓矢を携えたものの忠節心から鏃(やじり)をはずした矢で西軍と応戦しました。
勝敗の帰結は早く、農兵を退去させたのち、一人丘に登り自刃しようとした時に流弾が当たり絶命、また銃傷後に自刃したともいわれています。あとで義彰の屍を検死したところ弓弦(つる)に辞世の句が結び付けてありました。
「あす散るも色は変わりじ山桜」
享年32歳、安達ヶ原の観世寺に眠っています。
なお大正7年、東軍戦死者で唯一尊王義士として靖国神社に合祀されました。

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