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明治後期の小兵人気力士 藤見嶽虎之助(ふじみだけ とらのすけ)

明治後期の小兵人気力士
藤見嶽 虎之助(ふじみだけ とらのすけ):1878年~1923年

藤見嶽虎之助

国技として根強い人気を誇る大相撲、取組の中でも小さな力士が大きな力士を破る一番には格別なのものがあります。その小兵力士として、明治時代後期に活躍したのが、郷土出身の藤見嶽でした。

明治11年6月18日、神田久太郎・ヨウの長男として旧岳下村成田字椚橋(現・本町)に出生、久助と命名されました。幼少の頃から相撲が大の得意で、のちに本宮町の田村屋魚店に奉公。すでにこの頃、相撲では久助に勝てる者がいなかったといいます。
そして、東京両国の元行司木村庄太郎こと年寄藤島甚助に勧誘され、明治28年に力士への夢を抱き藤島部屋に入門することになりました。

当時藤島部屋には稽古場がなく、出稽古として近くの尾車部屋に通いました。余りにも小柄で貧弱な久助の体格を見た尾車は、将来性なしの面持ちだったといいます。
しかし、稽古を進んでかってでたのが破竹の勢いで幕下に昇進していた、のちの名大関・荒岩でした。厳しくも情愛に満ちた稽古と、久助の天性の機敏さ、東北人特有の粘り強さ、人一倍の負けん気が功を奏し、早くも同年5月の番付けで西序ノ口十八枚目に「藤見嶽」の名が張り出されたのです。
この四股名(しこな)は師匠藤島の一字と、故郷の秀峰安達太良山の愛称“嶽山”を偲ぶ意味を合わせて付けました。また、新入幕時に虎之助と改名したのは、寅年生れに由来したといわれています。

その後順調に位を上げ、明治36年1月に西十両八枚目、さらに5月には西十両筆頭まで昇進します。
そして翌年1月場所は大砲に加えて、新横綱常陸山と海ヶ谷の史上初の三横綱となり、大相撲の人気がこれまでにない最高潮に達した時、藤見嶽は待望の新入幕を果たし、東前頭十二枚目へと出世していきます。

史上最小といわれる、身長165センチ、体重71キロの藤見嶽は大きな相手を再三土俵にはわせました。特に、同38年5月場所6日目、横綱大砲との一番では身長差30センチ・体重差60キロがありながら、堂々の引分けを演じ(当時は勝・負のほかに預かり・引分けがあった)大喝采を浴びると共に、人気力士のひとりに数えられました。
藤見嶽の取り口について、大関・初代朝潮は「力士の中でも藤見嶽くらい相撲上手な者はいない。相撲具合の良いこと、出足といい逃足といい、おまけに柔らか身などは言い様がないほど巧い。」と称賛したといわれています。

入幕から明治43年に引退するまで(当時は年二場所制)、幕内十三場所のうち最高位の西前頭三枚目を二度つとめるなど小兵ながらも大きな力士に敢闘し、その技能の取り口は角界にその名を残しています。引退後は、年寄藤島を継ぎ後進の指導に尽力。
大正12年7月15日、風邪がもとで胸を冒され、45歳の若さで逝去。現在、安達太良山が眺望できる市海道共同墓地に眠っています。

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