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耳鼻咽喉科の先駆・権威者 久保 猪之吉(くぼ いのきち)

耳鼻咽喉科の先駆・権威者
久保 猪之吉(くぼ いのきち):1874年~1939年

久保猪之吉

わが国最初の耳鼻咽喉科講座を開設し、また「 イノ・クボ」の名で世界に知られたのが、久保猪之吉です。
明治7年12月26日、旧二本松藩士・久保常保の子として出生。小学校時代は、いつも背中に幼い弟を背負い手には教科書と紙片、そして短くなった鉛筆を持ち勉強に励んだといいます。
中学校進学に際しては、貧しい家庭事情から、不合格の場合は酒屋の丁稚奉公が条件でした。ところが小学校には英語の科目がなかったため、他教科は満点にもかかわらず、英語が極端に悪く、入学判定会議で不合格。しかし、一人の先生が事情を察し、将来性を強く主張したことから、土壇場で救われたのでした。

安積中学校卒業後、一高を経て、東京帝国大学医科大学に進み、明治33年(1900年)卒業。翌年助手に任命され、同36年耳鼻咽喉科学研究のため、三年間のドイツ留学を命じられました。
帰国後、京都帝国大学福岡医科大学(のちの九州帝国大学医科大学)教授に任ぜられ同年医学博士の学位を取得。そして、わが国最初の耳鼻咽喉科講座を開設し、専任教授となり指導に当たりました。

ある時、老齢で耳が遠くなった自由党総裁の板垣退助が診療を受けるため来院。久保の一族には、戊辰戦争で板垣の率いる軍兵に殺傷された者がいたことから、どんな気持ちで迎えたのでしょう。
診察を終えた久保は開口一番に「この耳はもうダメだなあ。年が年だから」と言うと板垣は大きな声で「バカを言うな。俺には昨年子供ができた。まだ若い」と反発。すかさず「それは、最後に老化するところだ」と突っぱねたところ、板垣は「う~む」とうなっただけで引き上げ、周囲からは「さすが、イノ・クボ」と笑いが起こったといいます。

のち、欧米各国の学会で研究発表を精力的に行い、国際的耳鼻咽喉科の権威者としてまた「小人の智者」と称賛されました。昭和3年(1928年)には、月刊専門誌として『耳鼻咽喉科』を発刊し、研究発表の場を提供。同年5月には、コペンハーゲンで開催された第1回国際耳鼻咽喉科学会に日本代表として出席しています。同10年大学を退官後は東京の聖路加病院顧問に就任、相変わらず研究に傾注し大きな影響を与えました。
一方、文学面でも明治30年代から短歌を志し、落合直文に師事したあと、服部躬治らと「いかづち会」を結成し新派和歌の普及に努めました。 その後は歌から遠ざかり、大正末年から俳句をはじめ、高浜虚子に師事、句集『春潮集』を出版しています。
さらに、蝶や高山植物の研究家としても高名でした。
昭和14年11月12日に東京麻布の自宅で病没、享年65歳。
”わが生の行路新たなり草紅葉” 大学退官に際しての詠歌です。

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