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ふるさと人物史「丹羽 光重」

印刷用ページを表示する 掲載日:2011年12月1日更新

二本松藩の基礎形成者
丹羽 光重(にわ みつしげ):1621年~1701年

丹羽光重肖像(狩野常信画)の写真

 元和元年12月28日、古渡江戸崎領主・丹羽長重と側室・竜光院との間に三男として出生、宮松丸と命名されました。正室・報恩院は織田信長の息女で、長重との間に長男、次男をもうけたもののともに早世。報恩院の勝気で嫉妬深い性格を案じた長重は宮松丸の誕生を隠し、家臣に預けました。その妻は於東(おとう)の局(つぼね)と呼ばれた才女で、乳母として養育に励むとともに、作法や文武の教育にも心血を注いだといわれています。
 7歳の時、正式に丹羽家三代目の嫡子に決定し、報恩院への初見参も重臣・樽井重継の取り計らいで無事に終了、幼年期の暖かい環境での体験が、のちに名君と讃(たた)えられた光重の文治政策に少なからず影響を与えています。

 寛永14年(1637年)長重の死去により17歳で白河藩主を継ぎ、そして同20年7月二本松藩誕生に伴い、初代藩主を命じられ、安達郡一円69ヵ村と安積郡41ヵ村の都合10万700石余を統治することになりました。
まず、藩の規範となる諸制度を定めるとともに、土木・建築の諸工事を推進しました。
城郭の修改築・増築としては、三の丸御殿や箕輪門の造営などがあります。 道路の開さくとしては、それまで郭内を通じていた奥州街道を現在の旧4号線へ付け替えています。
さらに、それまで雑居状態にあった郭内を侍屋敷のみとし、市街・仏閣・神社を郭外へ移すなど、十余年を費やして城内と城下町の大規模な整備を行いました。これは、現在の市街地の原型を築いた初期整備事業といえます。

 藩政に手腕を発揮する一方で、中央の文化を自ら熱心に学ぶとともに、藩内にも広めた文化人でもありました。
茶道は石州流祖・片桐貞昌に学び、「半古庵(はんこあん)」と号し、奥義を極めた茶人として中央にその名が知られました。画は狩野益信・常信に就いて学び「玉峰(ぎょくほう)」と号し、狩野派画風を会得した秀作は現在も残されています。さらに、華道や書道にも精通していたことが知られています。
また、当時の二本松宗教界に大きな影響と功績を残した名僧を招請し、仏教はもとより学問の普及にも尽力しました。遍照尊寺(根崎)を開山した高野山の僧侶である雲堂天岳(うんどうてんがく)法印、珊瑚寺(二伊滝、廃寺)を開山した帰化僧で万福寺(宇治市)僧侶の高泉性とん(こうせんしょうとん)和尚、松岡寺(松岡)を復興開山した花園寺(京都市)僧侶の太獄祖清(たがくそしん)禅師など、いずれも中央でその名の知られた高僧でした。このように、二本松藩始祖光重が、自らも学芸を好み、文治政策を奨励するとともに、多くの先賢・知識を招致したことは高い評価を与えることができます。
延宝7年(1679年)4月嫡子・長次に家督を譲り悠々自適の生活を送り、元禄14年4月11日81歳の天寿を全うし逝去。菩提所大隣寺の丹羽家墓所正面に葬られています。

法緯「慈明院殿従四位下前拾遺補闕玉峰大居士」