広報にほんまつ No.128
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「二に合ご田だ用よ水す」360年余りの時を超えてううい■■■■■■■■■丹■羽■光■重■公の命により造られ■■■■■■■■総■普請奉行(総責任者)を任ぜ 「約3二6合0田年用前水の」と江は戸時、今代、から二本松藩の初代藩主であったた用水のことです。光重公の祖父・長■秀■公は、といわれた武将であると同時に、安土城築城の折にはられ、父・長■重■公は、城としての評価が高い棚倉城や白河小峰城を築城しています。光重公は、こういった城づ団を引き連れて西暦1643年に二本松へ入府し、城づくり・城下町づくりを手掛けながら、安達太良山中腹の烏■川■沿いの大堰取水口から城内や城郭外へ水を引く導水工事を進めました。この工事により完成したのが「二合田用水路」です。最終的に完成したのは1700年といわれ、全長は約二合田用水は、ほかに「御用ることもありますが、県の登録用水名に記載されている「二合田用水」というのが一般的です。江戸時代、城の修繕工事なが必要でした。しかし、許可を得るのが大変だったため、無許可で用水路工事を行ったという説があります。その秘密を守るため「罪人が逃げ出したので藩は山狩りをしている」との噂を流したとも伝えられています。証拠を残さない為だったのか、当時の資料はほとんど残っていません。「なぜ二合田用水が必要歴史と今を紹介します。 だったのか」。二合田用水のく りに優れている有能な家臣ど を行う場合には幕府の許可織 田信長公の下、織田四天王水 」とか「二本松用水」と呼ばれ18キロメートルにも及びます。

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