3Nihonmatsu City Public Relations, 2018.7, Japanげうょうゅん慶應4(1868)年7月29日の正午前。ついに二本松城は炎上落城しました。二本松藩が新政府軍との徹底抗戦を決した老臣会議からわずか2日後のことでした。隣国三春藩の奥羽越列藩同盟からの離脱もあり、そして藩の軍事総裁家老の丹に羽わ丹た波ば率いる頼みの主力部隊は白河の戦いから未だ戻ることができないという状況下でのことです。猛烈な勢いで二本松城下になだれ込む新政府軍に対し、急きょ動員された藩兵には、老人、少年、農民も数多く動員されており、旧式の銃、槍、刀で新政府軍と戦う様子はあまりにも哀れで、玉砕と言ってもよい無残な結末を迎えました。戊辰戦争における二本松藩の対応を二本松市史では次のように断じています。「二本松藩は戊辰の戦乱の主導権も握られないままに、奥羽越同盟の最前線として兵火の災いを最も多く被り、領内を焦土と化し、領民を苦難の途に投じたのみであったことと、犠牲の大きさとを銘記しなければならない。」一方、二本松の戦いの様子をつぶさに見ていた新政府軍の隊長(参謀)である板垣退助は、二本松藩の戦いぶりに武士としての美徳を感じ、次の言葉を残しています。「一藩こぞって身命を擲なち、斃たおれてのち已やむまで戦い抜き、 新政府軍の隊長とはいえ板垣退助も土佐藩(現在の高知県)の武士。その思考の根源には、時代の流れとはいえ、徳川幕府と行動を共にすると思われていた親藩、譜代大名が、戦わずして次々に新政府軍に恭き順じ、降伏する姿に憤りを感じていたのかもしれません。戊辰戦争において、二本松藩は単に激しく戦っただけではなく、『城を枕に討ち死に』しました。これは、城郭が焼け落ち、首脳部が自刃し、兵の多くが死傷して敗戦に至ることを言い、武士道においては、敗者側のとりうる最高の選択肢とされていました。慶長20(1615)年に起きた大阪夏の陣以降、城を枕に討ち死にした藩は、日本六十余州全三百余藩の中で、二本松藩だけでした。戊辰戦争から150年。今月号は戊辰戦争における二本松の戦いを振り返ります。武士道の精せい髄ずいを尽くしたのは二本松をもって最上とする」ん
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