広報にほんまつNo.151
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Nihonmatsu City Public Relations, 2018.6, Japan3今から150年前、奥州二本松藩は激動の時代の波にのみ込まれ、戊辰戦争の中でも激戦の一つとされる二本松の戦いの舞台となりました。時は江戸時代末期。長らく太平の世が続いており、誰もが、この地に攻め入る者があるとは想像もしていなかったことでしょう。慶けい應おう4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦い以降、帝を擁して官軍を称する薩摩藩・長州藩を中心とする勢力は、徳川幕府打倒の武力行動を起こしましたが、時の将軍・徳川慶よし喜のぶの徹底的な恭きょう順じゅん行為により、その行き場がなくなりました。戊辰戦争における東北諸藩への進攻は、薩摩・長州両藩から最大の憎しみを受けていた会津藩・庄内藩を標的としたものであり、二本松藩は不幸にも、その進攻の途上に位置することになります。戊辰戦争における二本松藩の戦死者は、老兵、少年兵、農兵等を含め337人。二本松藩には、猛烈な勢いで進攻する新政府軍に降伏、恭順という選択肢もありましたが、徹底抗戦する道を選択しました。そこには、どのようないきさつがあったのでしょうか。また、新政府軍を迎え討つこととなった二本松藩は、どのような行動を取ったのでしょうか。戊辰戦争から150年後の現代に至るまで、日本はさまざまな戦争を経験してきました。現在の平和な時代を過ごすことができるのも、数多くの貴い行為の上に成り立っているといっても過言ではありません。戊辰戦争から150年を迎えるに当たり、この地で起きた戦争を私たちは、あらためて見つめ直す必要があるのではないでしょうか。恭きょう順じゅん…つつしんで命令に従うこと。

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