広報にほんまつNo.151
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4広報にほんまつ 2018.6丹羽家の初代当主は、丹羽長秀。16歳で織田信長に初出仕して以来、永禄3(1560)年に起きた、織田家が天下取りの第一歩を刻んだ今川義元との合戦(桶狭間の合戦)などで数あま多たの武功を上げ、同5年には信長の異母兄の娘を妻とし、織田家の姻戚関係となります。また元げん亀き2(1571)年には、織田家の家臣では初の城持ち大名(佐和山城主18万石)となり、天正4(1576)年には、日本初の本格的城郭建築である安土城の総そう普ふ請しん奉ぶ行ぎょう(総責任者)を務めたことでも知られています。 織田家中では、柴田勝家に次ぐ二番家老の席次を与えられ、両名は織田家の双璧と評されました。また、「木綿藤吉、米五郎佐、かかれ柴田に退き佐久間」という織田家中の有名な戯ざれ言葉があります。この言葉は、織田信長の有能な家臣4人をそれぞれ指し、「木綿藤吉」とは羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を、「米五郎佐」とは丹羽五郎佐衛門(丹羽長秀)を、「かかれ柴田」とは柴田勝家を、「退き佐久間」とは佐久間信盛を評しています。この戯れ言葉からもうかがえるように、木綿(秀吉)は華美ではないが重宝であるのに対し、米(長秀)は、非常に器用でどのような任務もこなし、米のように上にとっても下にとっても欠かすことができない存在であるとして、戦場のみならず実務家としても非常に高い評価を得ていました。 司馬遼太郎も小説「新史 太閤記」の中で長秀をこう評しています。「性、質朴で、言いだせばきかぬ点を、信長はむしろ愛した。その性格は合戦の仕方にも反映し、その戦いぶりには奇策縦横の華やかさはないにしても、難戦になっても退かず、攻めにあたってはまるで大おお掛かけ矢やで棒ぼう杭ぐいを打ち込むような、底ひびきのする攻め方をした。」 信長の死後、長秀は秀吉方につき、織田家の跡目を決定する清須会議で重要な役割を担い、その後の賤しずがたけヶ岳、北きたのしょう庄の合戦で柴田勝家を攻め滅ぼし、戦功として越前国・若狭国・加賀国2郡を合わせて123万石の大大名となりました。 この長秀の働きにより、丹羽家は戦国大名の中でも名門の家柄となり、かつ、城造りの技術を持つ家柄となっていきました。二本松藩主の丹羽家とは、いわゆる外様大名で徳川譜代の大名ではありません。織田信長、豊臣秀吉の時代に勢力を拡大した、安土・桃山時代を代表する大名でした。二本松藩が戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟の東北諸藩の先鋒となって新政府軍と徹底抗戦することとした大きな理由は、二本松藩主・丹羽家の歴史とその家風が大きく影響しているといわれています。ここでは、初代当主の丹羽長秀公から、三代目当主であり二本松藩初代藩主の丹羽光重公の説明をし、丹羽家の歴史と家風に触れてみたいと思います。初代当主丹に羽わ 長なが秀ひで

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