広報にほんまつNo.151
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戊辰150年企画丹羽 二本松藩5Nihonmatsu City Public Relations, 2018.6, Japan初代長秀が死去した後、丹羽家は苦難の道のりを歩くことになります。そして、丹羽家当主の中で最も苦労したといっても過言でないのが、2代・長重です。 長重は天正8(1585)年に15才で123万石を相続しますが、秀吉から家臣の軍令違反と謀む反ほんの疑いを掛けられ、12万3千石に減げんぽう封されるとともに、それまで丹羽家を支えてきた重臣たちも、秀吉に召し上げられてしまいます。 さらには秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が深まり、慶長5(1600年)年には、会津の上杉景勝征伐の折、徳川方として出陣するも、不仲であった前田利長と浅井畷なわて合戦を引き起こし、関ヶ原合戦後に家康により改易(所領没収)され、浪人の身分となってしまいます。 通常であれば丹羽家は、この段階で歴史の表舞台から消え去るところでしたが、2代将軍・徳川秀忠の世に、丹羽家は常ひた陸ちの国くち(現茨城県)古ふっ渡とで1万石の大名に復活します。大名復活にはさまざまないわれがありますが、長重の大名としての実力はもとより、秀忠の妻(お江)と長重の妻が従姉妹であったこと、丹羽家の持つ築城技術が認められての復帰であることなどの説があります。 その後の長重は、棚倉に5万石の大名として移い封ほうされ棚倉城を築き、続いて白河に10万700石の大名として移封され、東北地方では珍しい総石垣造りの白河小峰城を築城しました。 長重は、幕府から参勤交代の際の奥州諸大名の監視役の密命を受けたといわれており、幕府からの信頼も厚かったと考えられます。また関ヶ原合戦の折、石田三成方につき改易された大名は数多くありましたが、その後に10万石以上の大名として復活を果たしたのは、丹羽長重と立花宗茂の2人だけです。 寛永4(1637)年に死去する際、長重は子息、家臣に次のような遺言を残しています。『自分がこれまでやってきたように、将軍の恩に感謝し、幕府第一として、幕僚たちと円滑に付き合え。しかし、機転を利かせすぎたり、媚こび諂へつらうのはよくない』寛永14(1637)年の長重死去により、光重は若干16歳にして丹羽家の3代当主となります。同20(1643)年には二本松への移封で初代藩主となり、安達郡69ヶ村・安積郡41ヶ村の、都合10万700石の二本松藩が誕生しました。 光重は入府後、城郭の修改築および城下町の町割、村々の組編成など大規模な整備を行い、名君として家臣・領民から尊敬され続け、延宝7(1679)年に42年の長い治世の末、家督を長男の長次に譲り、永禄14(1701)年に、享年81歳で死去しました。 このように、丹羽家は戦国大名の中でも数奇な運命をたどりましたが、二本松入府後から戊辰戦争後の廃藩まで、二本松では丹羽家の藩政が行われました。丹羽家の家風は、初代長秀、2代長重が歩んだ道のりによりできあがったといっても過言ではなく、これが幕末まで引き継がれ、戊辰戦争では、止むに止まれぬ選択をしてしまったのも、この丹羽家家風が一つの理由だったのではないでしょうか。 戦国以来の武勇を誇る名門故の意地とプライド、徳川将軍家への恩義、愚直なまでの律義さ、さまざまな思考や感情が相まって、戊辰戦争を迎えることとなります。二代目当主丹に羽わ 長なが重しげ三代目当主(二本松藩初代藩主)丹に羽わ 光みつ重しげ

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