広報にほんまつNo.151
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戊辰150年企画丹羽 二本松藩7Nihonmatsu City Public Relations, 2018.6, Japan1643年1749年1643年8月丹羽 二本松藩誕生白河藩主・丹羽光重は、10万700石二本松藩の誕生に伴い、初代藩主として入府する。1646年丹羽光重が、城下の大整備に着手し、10年余りの歳月を費やし完成する。1658年二合田用水の開削設計・測量担当として、算学者の磯村吉徳が召し抱えられる。磯村吉徳が著した『算法闕疑抄』は、5版を重ねる和算書のベストセラーとして、全国にその名をはせる。1661年8月、二本松城内の熊野社・八幡社を合祀、栗ヶ柵に遷宮し「御両社」と称して領内の総鎮守とする。この頃、二合田用水が完成する。8月、御両社の例大祭が始まる。(後の提灯祭り)5代藩主・丹羽高寛の命により、儒者・岩井田昨非が藩士の通用門前の露頭巨岩に、「戒石銘」を刻む。4月11日、初代藩主・丹羽光重が死去する。1749年3月二本松藩が赤子出生養育御達(※)を出す。※農村の窮乏により、妊娠中絶などが多く、人口減少が問題となっていた当時、二本松藩は幕府や他藩に先駆けて、独自の赤子生育法を定め、第2子が出生したら五斗入り米1俵支給などと定めた。二本松御城郭全図(丹羽家所蔵)この絵図は、江戸時代後期から幕末期頃の城郭を描いており、丹羽光重公入府直後に大整備した当時とあまり変わっていない。城内を中心として、御殿・蔵・馬場・小屋などの各施設をはじめ、寺院・神社の位置、および主要道路・町名などがほぼ詳細に描かれている。現在の市街地と比べても、基本的に大差はなく、350年ほど前のまちづくりが、今でも脈々と生かされている。1660年1664年1701年1786年

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