「安達ヶ原物語」

昔、京の都に、いわてと呼ぶ老女がいて、可愛いお姫様のお世話をしていた。
ところが、お姫様は、大きくなっても口をきくことができなかったので、医者にみてもらったがどうしてもなおらなかった。
今度は、占師にみてもらったところ
「おなかの中にいる子どもの生ぎもを飲めば」 と教えられた。
いわては、生ぎもをとるために、京都を出て、奥州まで下って来た。
阿武隈川のほとりまで来て、いわては、生ぎもをとるのにちょうどよい場所を見つけ、そこに棲みついて、旅人を泊まらせては、生ぎもをとっていたという。
或る晩秋の寒い日のこと、若い二人の男女が、宿をこうて訪ねて来た。
この二人は、生駒之助。恋衣と呼ぶ夫婦で、
「泊まる所がなく、この寒さで困っております。それに、恋衣の腹には、子がおりますので・・・」とのことであった。
いわては、この話を聞いて、喜んで、泊めてやることとした。
その夜のこと、恋衣が、急に腹痛をうったえだしたので、生駒之助は、急いで薬を求めに出かけていった。

いわては好機とばかり、台所から出刃包丁を取り出して、恋衣の腹をさいた。
恋衣は苦しい息の下から
「私は、母を尋ねて歩いております。心当りの旅人がありましたらお話し下さい」
と語って、息絶えた。
いわては、恋衣の持ち物を調べたところ、お守り袋があったので、これを開いてみて驚いた。
恋衣は、いわての娘であった。
知らなかったとはいえ、いわては自分の娘を殺し、孫を殺したので、苦しみに苦しみ続けたいわては、遂に発狂して、鬼婆となったのだという。
鬼婆となったいわては夜になると灯火を高くともして旅人の足をとめ、旅人の財宝を盗ったり、殺して衣類を剥ぎとったりしては生活をしていたが都を遠くはなれていたせいもあって、咎める人もなかった。

しばらくたって、聖武天皇の神亀3年(726年)の秋8月のこと、熊野那智の東光坊の阿闍梨祐慶という僧が、この鬼婆の住む一軒家に宿を乞うた。
その夜は寒い夜だったので、鬼婆は薪を採りに出かけることになったが、その時
「ここをあけてはいけないよ」
といって出かけていった。
見てならないと言われれば見たいのが人情で、祐慶は、そこを覗いて見て驚いた。
そこには、血に染った屍や、朽ちはてた人骨が山をなしていた。
「ここに泊まったのでは殺されてしまう。婆の帰らぬうちに逃げよう」
と思った祐慶は、旅支度もそこそこに、一軒家からとび出した。
そのあとに、薪をとって帰って来た鬼婆は、祐慶の姿が見えず、荷物もなく、屍を見た祐慶が逃げ出したことを知り、
「逃がしてなるものか」
と、追いかけた。

祐慶は、だんだん追いついてくる鬼婆をふり返ってみて
「今は叶わじ」
と、熊野那智神社のお札を
「山になれ」
と祈りつつ撒くと、それが山となった。
鬼婆は、山を越えておってくるので、今度は、
「谷になれ」
と祈りつつ撒くと、今度は谷ができた。
鬼婆は、その谷をわたって、追って来た。
今は最期と、祐慶は、
「川になれ」
と、お札を撒くと、そこは、大きな川となったが、鬼婆は、それでも追ってきた。
祐慶は
「叶わじ」
と心を決めて、一心に如意輪観音に祈ったところ、不思議や、如意輪観音の尊像が天空にあらわれて、破魔の真弓に金剛の矢をつがえ、鬼婆を射たので、鬼婆は、その矢のために命を失った。
祐慶は、有り難い如意輪観音の御慈悲によって、命が助かったという。

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