光重公が二本松の城主となって来た時、まず手をつけた大きな仕事は、城下町の都市計画と城郭の増改築であった。
その一つの工事として、城門の建設をしようとしたが、材料となる適当な樫の木を見つけることが出来ないで困り果ててしまった。その後、領下全域に八方手をつくした結果、ようようにして箕輪村山王寺の山に発見したのであったが、その木は御神木として、手を触れてはならないいわれのある木だった。
重臣の山本(本山の誤りか)という人が、
「御神木とは申せ、城の護りにはかえられません」
というので、其の意見を用いて伐採することとなった。
人夫がやってきて、伐りはじめたところが、しばらく伐っているうちに不思議や、その切り口のところから、焔が吹き出したので、驚いた人夫が、役人に報告した。
「かまわずに伐れ」
との命令だったので、人夫は、どんどんと仕事を進めていった。
今度は真っ赤な血のようなものが、切り口から流れ出して来たので、再度の不気味な現象に恐れをもった人夫が、
「とても私に出来る仕事ではありません」
と願ったところ、役人も納得して
「木の持ち主ならよいだろう、地主がかわってやれ」
との事であった。
命ぜられた地主は、恐る恐る斧をもって伐ったが、今度は、不可怪な事もおこらず。
遂に御神木を伐りおえることができた。
樫の木が製材されることになった時、また不思議にも御丈九寸程(30cm位)の金仏が、樫の木の中から出現した。驚いた役人が事の次第を光重公に言上したところ、光重公は
「御神木なら 山王の御神体であろう。祀ってやるようにせよ」
とのことで、宮下御殿の山に、雲堂和尚を開山とする堂宇を建立した。
毎年6月15日を祭礼の日と定め、この日には箕輪村の村民は赤飯をたき、それを持参して参詣し、特に、藩主からは御酒を下さるのが、例となったが、後には、隔年の参詣となり、もっと後には、箕輪村民の参詣は途絶えてしまった。