“安積疏水”開拓の功労者
渡邊 閑哉 (わたなべ かんさい):1798年~1873年
寛政10(1798)年、下長折村(現 二本松市下長折字)の名主渡邊章の第4子として誕生、名は朴、通称儀右衛門、60歳で隠居して閑哉と号しました。幼いころより学問を好み、経済に志し、国学を大屋士由に、儒学を渡邊竹窓に学び、算学も修めたといいます。
文化14(1817)年、19歳で布沢村の名主となり、その後、天保14(1843)年には下長折村、嘉永2(1849)年には鈴石村の名主を歴任し、借財で疲弊した村の復興に尽力しました。のちに、二本松藩校「敬學館」の教授に推挙されましたが、「農民の自分が士族に教授するなど恐れ多い」として辞退したと伝えられます。
また、安積平野開墾に着眼し、その後の安積疏水開発の糸口を作ったといわれ、さらに、戊辰戦争により焼失した十文字岳温泉に代わり深堀に引き湯設計し、岳温泉の復興に尽力するなど、明治6(1873)年8月19日に病により没するまで、数々の偉業を成し遂げました。
その一方で、地方民の指導にもあたり、ジャガイモ栽培の奨励(閑哉芋(※))、護岸用の台明竹の増殖奨励(閑哉竹(※))、養蚕製糸の奨励、農村子弟の教育奨励を行い、多くの人に慕われました。今でも下長折地区には、「閑哉の墓」をはじめ、「閑哉の井戸」、「閑哉翁頌徳碑」があり、周辺の河川には“閑哉竹”、畑には“閑哉芋”が栽培されており、渡邊閑哉の足跡を辿ることができます。
閑哉竹…移川、小浜川が度々氾濫し大きな被害がでていたことから、九州から台明竹を取り寄せ、3年かけて土手に植栽し、洪水から住民を守ったことから、その竹を感謝をこめ「閑哉竹」と呼ばれることになったといわれています。
閑哉芋…天保の飢饉を経験した閑哉は、馬鈴薯の苗を作付し、飢餓に備えるとともに、その芋で酒を造らせるなど食料の備蓄を奨励したことから、この芋を「閑哉芋」と呼ぶようになったといわれています。