江戸時代屈指の和算家
磯村 吉徳(いそむら よしのり):?~1710年
遠く江戸時代から現在に至るまで、安達太良山麓より延延約18キロにわたり豊富な浄水を提供している用水。
その「二合田(にごうだ)用水」を設計測量したのが、和算家であった磯村吉徳でした。
吉徳は『世臣伝(せしんでん)』によると、寛永のころに尾張国(愛知県)に生まれたといわれ、通称を喜兵衛・文蔵、号を泥竜・琢鳴と称しました。寛永19年(1642年)ごろから、当時随一といわれた江戸の和算家高原吉種に学び、その奥義を極めて、正保4年(1647年)頃に備前国(佐賀県)鍋島孫太夫に仕えています。
二本松に来たのは承応元年(1652年)で、藩主丹羽光重公に召し抱えられたのは万治元年(1658年)でした。
光重公が二本松藩主として着任後、すぐに城内・城下の大整備を断行していく中で、二本松城防備という軍事的条件で欠けていたのが用水でした。しかし、幕府は城郭の新規建築はもとより修改築、そしてこうした工事に対して、厳しい規制をしていました。
そのため、本工事は幕府に無届で着手されたと伝えられています。これだけの大工事が、藩文書や記録類に全くといっていいほど残されていないことが、その裏付けと言えるでしょう。
結果的には、城防備のほか、灌漑(かんがい)用水による米の増産、衛生・防火など、多くの利点を生み出すことができたのです。
幕府に対して内密に進める工事のため、その測量、作業はほとんどが夜間に行われたとも伝えられています。
『二本松城沿革誌』では、当時の様子を「遠きは道に迷いし者の捜索のためとて、数人の提灯者を山野に放ちて奔走せしめ、近くは線香に点火せしめて、それを目標に測量せり」と記述しています。
また、工事着手と完成の年代も記録がないため定かではありません。しかし、吉徳が召し抱えられたときはわずか十五石ほどであったものが、寛文元年(1661年)には百石に加増されています。
これは、工事完成後に吉徳の功を藩主が高く評価した結果ではないでしょうか。このあたりにヒントが隠されているのかもしれません。
家臣としての藩への功績のほか、和算学者としての優れたものがありました。
それは寛文元年に著した全5巻からなる「算法闕疑抄(さんぽうけつぎしょう)』で、その後文化元年(1804年)まで五版を重ねるほど、江戸時代の和算書のベストセラーの一つにたっています。
この著書の特徴は、いままでの和算の内容をすべてまとめあげ、しかもそれを従来の書と比較して非常に詳細に記述してある点にあります。
そして本書は当時の和算の総決算であり、磯村の数学者としての力量を示すとともに、磯村流和算を不動なものとしたのです。
宝永7年7月24日没、法号「慶誉向善」、市内根崎の善性寺に眠る。