高野山の名僧
雲堂 天岳(うんどう てんがく):1628年~1692年
近世の二本松仏教界に大きな足跡を残した名僧の中で、特に三大徳と称されているのが、珊瑚(さんご)寺開山の高泉(こうせん)和尚、松岡(しょうこう)寺開山の太嶽(たがく)和尚、そして法力・霊験等の伝説が語られた高野山僧侶で遍照尊(へんしょうそん)寺開山の雲堂和尚です。
寛永5年和泉国(現大阪府)に出生。名は立英、道号は雲堂、法諱を天岳と称しました。また、米穀を絶ち、草木の実を常食として一生を終えたことから、木食(もくじき)上人ともいわれました。
高野山興山寺住職のとき、二派による数度の激しい対立争論があり、反対派の策略によって幕府から嫌疑をかけられ、寛文6年(1666年)9月に奥州流罪として二本松藩主・丹羽光重にお預け処分となったのです。
公は以前から、雲堂が学徳の優れた天下の名僧であることを知っていたため、城内の本町谷に小庵を建て、米十人扶持(ぶち)を給し、丁重に待遇しました。また、形式的に数人の番人をつけたものの、実は水汲みや煮炊きなど、すべての下働きをさせるための計らいでした。
同9年に罪が減じられ、事実上の配流・蟄居が解かれ、藩内における宗教活動の自由が許されました。
そして、精力的に庶民と交わり、多くの加持祈祷(かじきとう)を施しています。一方、公は雲堂のための一寺を献じようと申し入れたものの、なかなか受け入れられず、同12年ようやく建立できたのが根崎に現存する遍照尊寺でした。
延宝3年(1675年)幕府の大赦令により赦免。しかし高野山には戻らず、10年余りも二本松に住したのです。
二本松滞在中の雲堂にまつわる法力・霊験逸話は数多く伝えられ、特に二本松藩の風土記といえる『相生集(あいおいしゅう)』には「雲堂対鬼」「雲堂対蛙」二話が収録されています。
前者は河童の話で、城下に夜な夜な出没し、人々に祟り、騒ぎ、いたずらをするため、一両日護摩(ごま)をたいたところ、姿を消した逸話であり、後者は“雲堂の法力、蛙鳴くを封ず”として、遍照尊寺境内の池に生息する蛙の鳴き声が非常にうるさいため、呪咀(じゅそ)をもって止めてしまったという逸話です。
また、寛文8年、旱ばつのため領内の僧や老若男女に名山・社寺に雨乞いさせたもののさっぱり効果がなく、雲堂の法力に期待する声が高まり、公は祈祷を命じました。その結果、盆を覆す大雨となり、領民はその霊力に驚嘆したといいます。
法力により諸奇跡を呼び、領民から“生き仏”“今弘法大師”と慕われた雲堂が二本松を去り、高野山に帰山したのは貞享4年(1687年)のことでした。
しかし、再び対立争論に巻き込まれて処罰され、名もない京都の山寺に強制隠居を命じられました。つまり態のいい追放処分でした。雲堂は断食行の無抵抗をもって権勢に抗議し、元禄5年4月9日遂に世寿65歳で示寂しました。真言宗究極の秘行である「即身成仏」をもって教に殉じたのです。