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不屈の自由民権運動家 平島 松尾(ひらしま まつお)

不屈の自由民権運動家
平島 松尾(ひらしま まつお):1854年~1939年

平島 松尾

近代政治史黎明期を語る上で不可欠な事項は、各地に波及した自由民権運動です。
二本松においても政治結社「明八会」ができ、会長に安部井磐根(あべいいわね)が就任、しかし自由主義の根本的な考え方の相違から別の道を歩み、のち互いに政敵として竜虎を競い合った人物が平島松尾でした。

松尾は安政元年11月17日、勘定奉行平島正就(まさなり)の長男として旧郭内の一ノ丁に出生、幼名を太郎八と称しました。
のち、漢学を藩教授の堀六石(ほりろくせき)に学ぶとともに、剣術・馬術・弓術・砲術も各々の藩師範に師事、文武ともに熱心精励で、成績は常に群を抜いていたといいます。
慶応4年の戊辰戦争に際し、藩兵の多くが白河口に出陣。15歳の松尾は諸道修業の精練を認められ、抜擢されて御城番組諸口門番、次いで弾薬製造役を命じられました。
そして藩領への西軍進攻にいたって、大砲方附を命じられ高田口に出陣、初めて戦争を体験したのでした。松尾はのちに「余の一生を通じて死すべくして死なざりし事は度々なりしが、此の時を以てその初めとす」と述べています。

明治維新に際し、いち早く英語・洋学を修業。明治6年(1873年)小学校教員となり、同8年大蔵省に出仕、2年後帰郷し福島県属となり、同14年に退官しています。その決断となったのが、河野広中(こうのひろなか)との出会いでした。
広中が主唱する自由民権運動に傾注した松尾は積極的に参画し、自由党福島支部創立委員となり、民権思想啓発に奔走しました。そして同15年、“自由は人の天性、自由を保つは人の道”のスローガンのもとに創刊された「福島自由新聞」の発行委員を担当。“人の自由なくしては新しい時代の政治は成立しない”とする進歩的な提唱は、新政府が強力に進める中央集権化策のため厳しい弾圧に遭い、7号をもって廃刊となりました。
さらに同年12月福島事件を契機として、民権運動は急速に退潮に追い込まれることになります。当時、自由党の指導者達は30代が大部分であり、最高リーダー河野広中らが国事犯として捕らえられたのでした。
松尾は運よく逮捕を逃れ、東京の党本部に直行し県令三島通庸(みしまみちつね)の暴政・弾圧を報告。党幹部は早速、太政大臣宛の上申書を作成し松尾に歎願を委ねたが、大臣三条実美(さんじょうさねとみ)邸で逮捕され、翌年に広中らと共に内乱陰謀罪で軽禁獄6年の刑を言い渡されたのでした。

明治22年出獄、翌年の第1回衆議院総選挙に自由党から立候補したものの、中立無所属の安部井磐根に9票の僅差で敗れました。
しかし、その後も両者は政敵として、都合7回の選挙戦を争っています。第2回も磐根、第3回は松尾が9票差で雪辱初当選、第4回も松尾、第5・6回は磐根、第7回は松尾で、通算3勝4敗の接戦激戦でした。
以後、磐根の政界引退後も4回当選し、大正9年(1920年)引退するまで自由民権政治確立に尽力、昭和14年8月13日86歳をもって逝去。安達ヶ原公園に内閣総理大臣加藤高明(かとうたかあき)が篆額(てんがく)した、頌徳碑(しょうとくひ)が建立されています。

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  • 【更新日】2017年11月11日
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