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世界的歴史学者 朝河 貫一(あさかわ かんいち)

世界的歴史学者
朝河 貫一(あさかわ かんいち)

朝河貫一

明治6年(1873年)12月20日(戸籍上は22日)旧二本松藩士朝河正澄(まさずみ)・ウタの長男として、二本松町下ノ町新長屋(したのまちしんながや)(現二本松市根崎(ねざき))に出生。翌年8月父の伊達郡立子山(だてぐんたつごやま)小学校校長赴任に伴い、立子山の天正寺(てんしょうじ)に移住し、立子山小学校から川俣(かわまた)尋常小学校と進み、明治20年(1887年)福島尋常中学校(のち安積(あさか)中学校に改称)に入学した。
在校中の成績は全学年を通じて常に一位を占め、4年生からは特待生に選ばれている。中でも英語は抜群で、卒業式で首席としての答辞を流暢(りゅうちょう)な英語で演説し、参列者を驚かせた。彼の英語の勉強については毎日、英英辞典を2ページずつ暗記しては食べるか破り捨て、残ったカバーを校庭の隅の若桜の根元に埋めたというエピソードを残し、後にこれを“朝河ざくら”と呼ぶようになった。

明治25年(1892年)東京専門学校(現早稲田大学)に入学し、同28年首席で卒業。中学校時代に決意していた“将来アメリカに留学して世界の広い知識を学び、日本文化の発展に貢献する”という志しを抱き、大西祝(おおにしはじめ)・大隈重信(おおくましげのぶ)・徳富蘇峰(とくとみそほう)・勝海舟(かつかいしゅう)らの渡航費援助により、12月7日横浜港を出航した。
翌年1月ダートマス大学に編入学、卒業後はダートマス大学長タッカーの援助とイェール大学の奨学金を得てイェール大学大学院歴史学科に入学、優秀な成績をあげ、明治35年(1902年)論文『日本における初期の制度的生活、645年改革の研究』で哲学博士の学位を授与され、のちダートマス大学講師に迎えられ、東西交渉史の講義を担当した。

明治37年(1904年)『日露衝突(にちろしょうとつ)』を刊行し、日露戦争における日本の正義を英米国民に説き、翌年日本側のオブザーバとしてポーツマスにおける日露講和会議に出席し妥結を主張した。この年、ニューヘイヴン市の女性でイェール大学時代に知りあったミリアム・J・キャメロン・ディングウォールと結婚をしている(8年後死去、以来独身)。
翌年帰国し、イェール大学図書館および米国議会図書館への日本関係図書の収集を行った。同40年イェール大学に迎えられ、日本外交史と日本文明史を担当、のち大学院の日本文化史助教授、さらに歴史学助教授に昇進した。この間、『日本の禍機(かき)』『入來文書(いりきもんじょ)』など諸論文を発表するとともに、日本をはじめ中国、欧州諸国への調査旅行を精力的に行っている。

滞米54年間のうち、36年間はイェール大学に奉職し、昭和12年(1937年)日本人として初めて同大学の正教授となり、同17年定年退職して名誉教授になるまで西洋中世法制史を担当し東西封建制の比較研究で前人未到の境地を開拓した世界的な歴史学者である。一方、国際関係論にも優れ、世界的視野と日本国民の幸福という観点に立ってなされた祖国日本への警鐘は数多く、特に日米開戦の危機の前に立ちはだかって天皇に送るべき米国ローズヴェルト大統親書の草案に熱意を込めたことは、偉大な愛国者であったことを物語っている。開戦後、米国は博士の学績と思想に敬意を払い、その自由を保証している。

昭和23年(1948年)8月11日早朝、避暑研究先のバーモント州ウェスト・ワーズボロの山荘で心臓麻痺のため74歳の生涯を終えた。その訃報はAP電・UPI電を通じて「現代日本がもった最も高名な世界的学者が逝去した。」とその死を悼み世界の隅々まで打電され、さらにイェール大学は告別式を挙行、博士はニューヘイヴン市グロウヴ・ストリート墓地に葬られ、永遠の眠りについた。また、市内金色墓地にも博士夫妻の墓が建立されている。

ふるさと村先人館

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  • 【更新日】2023年8月10日
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