亜細亜(あじあ)大学の創設者
太田 耕造(おおた こうぞう):1889年~1981年
二本松ゆかりの人物で、太平洋戦争終焉間近に文部大臣として活躍し、終戦後「亜細亜大学」を創設したのが、愛国者として知られた太田耕造です。
旧二本松藩の豪商・勢州屋八代長左衛門より分家した太田貞郎は、明治維新後に安部井磐根の勧めもあり、明治9年に金融機関「相生社(あいおいしゃ)」結社に参画、その関係で福島に居を構えました。
耕造は、明治22年12月15日貞郎の四男として出生。家庭の事情で6歳ごろまで二本松で育ちましたが、青少年時代については自らを語ることの少ない、無口な実行肌の性格であり、その経歴はあまり知られていません。
明治30年代前半の金融危機によって本家と共に連鎖倒産となり、小学校中退を余儀なくされました。のち、姉の影響で福島教会で洗礼を受け、キリスト教青年活動に従事する傍ら、私立「学半塾」を修了、そして二松学舎創始者の三島忠州に師事しています。
その後、牧師を志し上京、聖学院神学校に入学したものの中途でその道を断念し、法律・政治家に進むことを決意。大正9年東京帝国大学法学部英法科を卒業し、東京地方裁判所所属弁護士となり、さらに現代政治思想史研究の機関誌「国本(こくほん)」の重要メンバーとして、国家主義運動に傾注しています。
昭和13年法政大学教授に就任、しかし翌年1月の平沼騏一郎内閣誕生に伴い総理大臣秘書官に任命され、次いで4月に内閣書記長(現官房長官)、そして8月には貴族院議員と、着実に政治家としての才能を買われ、また発揮していきます。同20年4月、鈴木貫太郎内閣誕生に際し文部大臣に任命され、戦争継続が終結かの重大局面の仕事に取り組むと共に、ひたすら天皇制存続に努力したのです。
そして終戦となり、大臣を辞職したのち、A級戦犯容疑に問われ、一年半に及ぶ巣鴨刑務所拘留の結果、不起訴処分で出所。弁護士としての再登録する一方、日本再建の基礎は青少年の正しい育成であるとの堅い理念から、再び教育に情熱を傾注する決意を固めたのでした。
昭和29年、先に自ら創設した亜細亜学園理事長・日本経済短期大学長に就任。日本とアジアの親善・理解の重要性を説いて、派遣留学生制度を確立し、教育面だけではなく、文化交流・国際親善にも大きく貢献しています。
また、“日本及びアジアの文化社会の研究と建設的実践に重点を置き、もってアジア融合に新機軸を打ち出す人材を育成するを、その使命とする”と説き、「自助協力」を建学精神として、同30年に亜細亜大学を創設し、学長に就任。留学生別科を開設し、アジア各国から迎え入れ、その数は一千人を超えたといいます。
「アジアは一つであり、教育こそ国を救う源である。」と訴え続けた真の愛国者・教育者は、同56年11月26日、91歳の長寿をもって逝去。その精神は今もなお後進に受け継がれています。