中国哲学の泰斗(たいと)
服部 宇之吉(はっとり うのきち):1867年~1939年
昭和11年に福島県教育安達部会で刊行した「旧二本松藩戒石銘説明書」があり、現在でも戒石銘研究の基本書となっています。これを詳述したのが、明治から昭和にかけて中国哲学の権威者として知られた服部宇之吉博士です。
博士は、慶応3年4月30日、二本松藩士服部藤八の三男として出生。藩士といっても僅か二人扶持(ににんぶち)の下級武士の家系でした。生まれた一年後に母が病没、二年後に父が戊辰戦争で戦死するという不幸が襲いました。そのため、父の弟夫婦が引き取り育てることになりました。
明治6年(1873年)、養父が麻布六本木の旧藩主丹羽邸に勤めることになり、一家で上京。貧しいながらも実直勤勉な養父母の理解もあり、漢学塾で学び始め、同9年麻布小学校開設と同時に入学し勉学の道を歩み始めます。
明治20年、東京帝国大学哲学科に入学。この年、旧藩主丹羽長裕に随行し、二本松に帰省しています。そのとき“養父母や他の人から聞いておりました二本松というものを、初めて自分の目で見、自分の足で踏んだように感じたのであります。”と、のちに語っています。
大学を卒業し、文部省に勤めたものの、すぐに退職し第三高等中学校(旧制三高の前身)教授として赴任、のち東京高等師範学校教授、さらに同30年には文部大臣秘書官として文部省に再勤務します。
明治32年、東京帝大助教授となり、同時に文部大臣から漢学研究のため清国(しんこく)(中国)とドイツへの留学を命じられました。同35年、博士号の学位を受けるとともに東京帝大教授に迎えられましたが、その直後に清国政府の懇請により北京大学堂師範館主任教授として渡清。清国人教育の根幹は清国人自身にあるという理念のもと、師範制度を確立し、また清朝廷の家庭教師を兼ねるなど、清国教育界の発展に貢献したのです。
大正4年(1915年)にはハーバード大学で中国哲学の講義を受けもち、帰国後は帝国学士院会員、東京帝大文学部長に昇進しました。
大正10年、東宮職御用掛を拝命し、御講書始には天皇への漢書御進講の栄に再三浴しています。また京城帝国大学創設に携わり、同15年に初代の同大学総長となりました。
さらに、裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)の進講御用掛を拝命し、「二本松藩戒石銘」の御進講を行ったといわれています。
博士の学問は西洋哲学を踏まえて、いわゆる孔孟の道、中国の礼の思想に論理的体系付けをしました。なかでも中国古代の実践儀礼、冠婚葬祭全般にわたる士の儀礼の典拠としてただ一つ残されている「儀礼(ぎらい)」の研究に独自の見解を発表し、国内外の学界より高い評価を得たのでした。
その研究業績は、『清国通考』『詳解漢和大辞典』などの著書・論文を合わせて二百余の多くを数えています。
昭和14年7月11日病没、享年73歳。法号「礼文院殿釈随軒正道大居士」、東京都文京区大塚の真言宗護国寺に眠っています。