長野県近代教育の恩人
渡辺 敏(わたなべ はやし):1847年~1930年
明治維新後、戊辰戦争の爪あとが残る二本松を去り、他県で活躍した人々のなかで、長野県の近代教育源流形成者の恩人に挙げられているのが、旧二本松藩士・渡辺敏です。
弘化4年1月28日、藩士浅岡段介の四男として生まれ、幼名を信四郎と名付けられました。弟には、のち同様に長野県教育界で功績を残した浅岡一がいます。6歳から藩校敬学館で学び、12歳で御小姓役に出仕する一方、弓術・槍術・剣術を修めました。
改名に当り、父は『論語』の中で特に好んだ「言ニ訥(とつ)ニシテ行ニ敏(びん)ナラント欲ス」つまり“口は達者でなくとも、実行は速やかに”から「行フニ敏(はや)シ」と訓じ名付けた、とのちに敏は述懐しています。
幕末期、本人の知らないままに藩校教授渡辺新介(戊辰戦死者)との養子縁組がなされ、敗戦後、そのことを知りました。士族常禄として支給される、わずか玄米16石(40俵)で養家の4人家族を扶養する生活は苦しく、藩校助教授を勤めるかたわら諸事業に手を出しては失敗の連続でした。
明治7年(1874年)明治維新の最中、「自分の性格は政治家・実業家・武芸家としては適さず、学者として世に立つことが最も当を得」の立志により、教育者の道を歩むため東京師範学校に入学。卒業後、長野県安曇郡大町村仁科学校に赴任し、学校教育をはじめ夜学会開設、職業学校設立建議など、8年にわたり地域教育に尽くしました。
明治17年に依願退職し帰郷、福島師範学校・若松中学校で教鞭をとりましたが、同19年再び長野県の熱意ある招請により、上水内郡長野学校長(現長野市)に着任。さらに新設された長野県高等女学校(現長野西高校)の初代校長に就任、以来大正5年に70歳で退職するまでの約30年にわたり長野県教育界でその手腕を発揮したのです。
この間、補習夜学科や晩熟生学級の開設、子守教育所や盲人・唖人教育所の設立などにも尽力。その言動は無私無欲で合理主義に徹底し、全国の模範となった長野県の初等中等教育・障害教育・社会教育、いわゆる“信濃教育”の基盤の確立と発展に大きな功績を残しました。
大正4年長野高等女学校同協会は渡辺敏彰徳会を組織、また大町小学校には記恩碑建立、さらに文部省教育功労者表彰など、幾多の顕彰・表彰を受けています。
一方、先祖が眠る故郷二本松には再三訪れ、大正6年の戊辰戦役50周年慰霊祭に臨席したり、また昭和3年には依頼され自ら体験した戊辰戦争談を講演しています。
昭和4年正月、脳梗塞のため言語不通・右半身不随となり、翌年2月21日逝去。法号は無我心院文鏡雪窓大居士、長野市の霊山寺に眠っています。雑誌『信濃教育』は「渡辺敏先生追悼号」を特集その業績を称賛しました。