“信濃(しなの)教育”誕生の恩人
浅岡 一(あさおか はじめ):1851年~1926年
“信濃教育”で知られ、全国教育界の模範となった長野県教育、その基礎形成に貢献した二人の人物はいずれも二本松出身者でした。
その二人は実の兄弟で、今回紹介する浅岡一と、四歳年上の渡辺敏であり、今でも長野県教育界の恩人として顕彰され続けています。
浅岡一は嘉永4年1月8日、二本松藩士で武器奉行を務める浅岡段介の五男として出生。戊辰戦争に際してすでに隠居していた段介は、老人組として出陣し壮絶な戦死と遂げ、さらに家督を継いでいた長兄も戦死しました。一方、母方の実家である渡辺家でも当主が戦死をするという三重の悲運が襲いました。
そこで、浅岡家は末弟の一が、渡辺家は兄の敏が継ぐことになったのです。一は少年のころから講義にひいで、15歳の時に藩から招かれて御前講義をするほどの秀才であったといいます。
戊辰戦争の爪痕(つめあと)が消えない明治5年に上京、信州松本出身の辻新次に身を寄せ、勉学に励んだことが長野県との関係を生んだといわれています。
最初は文部省勤務を振り出しに、広島師範、東京女子師範、東京府学務課に務めるかたわらフランス語を修得しました。
再び、文部省から和歌山県学務課長を経て、明治19年(1886年)9月に長野県師範学校長として赴任、同県学務課長をも兼任することになりました。
そして、同年創設された信濃教育会の初代会長に推され、以後、長野県教育界の中心的人物として大きな影響力を発揮することになります。
一は師範教育の目的を「順良・信愛・威重」気質の養成とし、因襲を打破するとともに、合理主義を浸透させることに尽力しました。それは、全寮制の導入や子弟間に人格愛情を養う精神主義教育の確立など、教育の充実を図り、教育尊重の気風を植えつけることでした。
さらに、校長よりも高い給料で人材を登用したり、教育環境の整備として校舎新築を進めました。そして、明治23年(1890年)附属小学校や幼稚園を積極的に開設し、翌年には女子部を設けて女子教員養成の道も開きました。
また、当時としては画期的な修学旅行を実施したり、憲法発布の大典には教職員・生徒を引率し上京するなど、信濃教育界に浅岡時代を築き、浅岡学風を浸透させたのです。
一の人柄は、温かい人情味にあふれていたといいます。教育に対しては部下を信じ、部下に間違いがあれば自らが責任を負い、極めて寛大であり、特に青年の心を引き寄せることに長じていました。
明治39年(1906年)退職後、福島県立会津中学校長に招請され6年間、会津教育振興にあたっています。
晩年は東京に在住し、大正15年9月25日、75歳をもって逝去しました。
長野県は、全国一の教育県に育て上げる基礎を築いた功労者として、信州大学教育学部構内に頌徳碑(しょうとくひ)を建立し、その業績を讃えました。そして一と敏は、編纂(へんさん)される多くの長野県教育史には必ず登場する人物なのです。