よみがえる二本松城 高精細CGで魅力に迫る!
二本松城は、三ノ丸御殿や新御殿、藩校「敬学館」、役所の御会所などが建ち並ぶ、素晴らしく壮大で、日本でも屈指の規模を誇った城でありました。
日本を代表する建築史・城郭史が専門の三浦正幸広島大名誉教授が、二本松に伝わる資料や丹羽家から寄贈された図面や資料、二本松藩の大工棟梁であった松田家に残された絵図面など、さまざまな図面や資料を基に復元しました。
CGを作って分かったことは、石垣の壮大さです。盛岡城・仙台城・会津若松城・白河小峰城と合わせて東北地方「五大石垣名城」というべき立派な石垣です。
2つ目は10万石の城でありながら、櫓が一つもなかった平和で文化的な城だったこと。江戸幕府に遠慮したためだろうと思われます。
二本松城は2つの城からなっております。ひとつは白旗ヶ峯の山頂にあり、南北朝時代の奥州探題・畠山時代の古城。もうひとつは山麓にめぐらされた石垣が美しい二本松藩時代の丹羽、10万石の城。
二本松城は、正平元年(1346)、南北朝時代に畠山国氏が奥州探題としてこの地に赴任したことに始まりました。応永21年(1414)畠山満泰により城が築かれ、周囲を圧しましたが、12代義継のとき伊達政宗の父・輝宗と刺し違えました。その後、伊達・蒲生・上杉・加藤と領主が変わりました。
寛永20年(1643)に丹羽光重が白河城より10万700石で入封。慶応4年(1868)、幕末の激動期に二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加し、殺到する薩長藩を中心とする官軍を相手に果敢なる抗戦を行いましたが、同年7月29日猛攻を受けて城は陥落。
二本松城は、中世城館と近世城館、山城と平城が600年余にわたり同一箇所で営まれており、これが最大の特徴であります。
「甦れ!二本松城〜CGで挑む往時の姿〜」を「にほんまつ城報館」で8月28日まで、開催しています。城主が暮らした三ノ丸上段、家老邸、藩校敬学館跡から発掘調査で出土した生活用品等の遺物・絵図などを展示し、復元された二本松城跡のCGから往時の二本松城
に思いを馳せてみませんか。
二本松市長 三保 恵一